Voices|林 卓史さん
Cool Head, but Warm Heart: そんな指導者を目指して
Profile
林 卓史(はやし たかふみ)
慶應義塾大学体育会野球部助監督
1993年春の甲子園出場(岩国高校)。慶應義塾大学総合政策学部卒。塾体育会野球部在籍中、1997年に春の東京六大学野球リーグ優勝、日米大学野球選手権優勝。東京六大学通算21勝15敗。卒業後、日本生命入り。2002年に社会人野球日本選手権に優勝。2003年から2005年まで塾体育会野球部コーチ。2007年、慶應義塾大学大学院健康マネジメント研究科修了(一期生)。朝日大学経営学部教員・野球部監督を経て2016年より現職。
【スポーツマネジメント専修】
大学野球部コーチと大学院生の二束の草鞋
私は、ずっと野球一色の人生を送っていました。自分では順風満帆とは思っていませんが、甲子園や神宮のマウンドに立つことができましたし、卒業後は社会人野球でプレーを続けることができました。ずっと「もっと上手くなりたい」という一心で練習に励み、野球に打ち込んできました。社会人野球は5年で引退したのですが、引退と同時に退社し、大学野球の指導者を目指すことにしました。まだ投げる自信はありましたが、現役続行に未練はありませんでした。日本選手権で優勝することができ、一区切りついたという気持ちもあったんだと思います。新しいことに挑戦したいという想いが込み上げてきたのと、何よりも大学野球に魅了されていたんだと思います。
指導者としてのキャリアは、好運にも、母校の慶應義塾大学から始まりました。塾体育会野球部コーチ就任2年目に、健康マネジメント研究科が開設されることを知りました。現役選手の頃から、さまざまな疑問を抱えていました。「早慶戦ではスタンドが満杯になるのに、なぜ他大学との対戦では閑散としているのか」「オリンピアンや他のプロスポーツと比べて、なぜプロ野球選手の報酬は圧倒的に高いのか」「なぜ野球以外のオリンピックスポーツで選手のプロ化が進むのか」「プロ野球があるのに、なぜ社会人野球が存在する(できる)のか」いずれも、現役選手には必要ない疑問ばかりですが、こうした疑問を抱かずにいられませんでした。指導者としては駆け出しで、コーチと大学院生の二足の草鞋を履くことになりますが、学びたいという情熱があふれ出てきて、受験を決意しました。また、現実的な理由として、修士号の取得は、大学教員としての採用の可能性にプラスに働くだろうとも考えていました。
坩堝(るつぼ)のような大学院
一期生として入学した当時のスポーツマネジメント専修には多彩な人材が揃っていました。年齢層は新卒者から定年退職者まで幅広く、競技レベルはプロからレクリエーションまで多層的で、スポーツメーカー、トレーナー、スポーツビジネス、金融、製薬、コンサルタントなど、実務経験者の背景も多様でした。誰もがスポーツへの熱い思いを持っていましたが、スポーツの捉え方は一様ではなく、大いに刺激を受けました。例えば、同期生にはアメリカからの帰国子女がいたのですが、日本とアメリカのスポーツ文化の違いを何度も感じさせられました。修行僧のように野球と向き合っていた私には、アメリカ的な「エンジョイ」という発想はありませんでした。どちらが正しい、正しくないということではないのですが、さすがに「死ぬ気」で取り組むことを完全否定されたのはショックでした。これはほんの一例ですが、スポーツとの関わり方は多様でありスポーツの価値は多面的であるということを、同期生とのやり取りから学びました。自分の視野の狭さを何度も痛感させられました。でも、指導者を目指す私にとっては、こうした経験は大いなる糧となりました。
拡がった視野と鍛えられた論理的思考力
指導教員は佐野毅彦先生でしたが、スポーツビジネスの実務経験があり、顧客志向の大切さを学びました。当時の私は「厳しいだけ」のコーチだったと思います。指導される側の立場で考えたことなどありませんでした。佐野先生の授業は教え方にも工夫がされていて、自分の眼には突拍子もないように映るものでも、説明を聞いているうちに「ああ、そうか」というような仕掛けが隠されていることがありました。当時の私の指導法は自身の経験則に頼った我流に近いもので、一本調子だったかもしれません。論理的思考力を「厳しく」鍛えてもらったと思っています。ヒントは与えてくれましたが、自力で解に到達するまで許してくれないので。現場にずっといると脳が筋肉化するというか、どうしても視野が狭くなってしまうような気がしていましたので、よいトレーニングになりました。修了後は地方大学の教員となり、教鞭を執りつつ野球部の指導を行いましたが、修了後の方が佐野先生の教えが身に沁みました。振り返ってみると、居酒屋での学びが一番貴重だったかもしれません(絶品だったもつ煮の味も忘れられません)。
大西祥平先生(故人)の授業で心臓震盪(しんとう)について学んだ時のことも強く印象に残っています。野球の守備練習では当たり前のように「体でボールを止めろ」と指導されていますが、そこに生死にかかわるようなリスクが潜んでいるとは知りませんでした。事故が起きたときに「知りませんでした」で済まされるようなことではなく、指導者として学ぶべきことは多いと改めて実感しました。
健康マネジメント研究科は、実証的な分析手法の修得に力を入れていますが、これは現代のスポーツ指導者にも欠かせないスキルだと思います。野球でいえば、大学院に入学した頃に『Money Ball』という本が出版されて、セイバーメトリクスという統計解析に基づく選手評価や戦術分析が脚光を浴びつつある時期でした。恥ずかしながら出来の悪い学生で、分析手法科目担当の高橋武則先生(2012年退官)の熱い指導に後押しされて、何とか喰らいついていったのが実情ですが、それでも指導者としての引き出しは増やすことができたのではないかと思っています。現在でも、指導するうえでデータは重視しています。
野球文化の振興の担い手
多くの方々の支援や理解があって、十年振りに塾野球部に戻り、現在は助監督をしています。私は地方出身者で、高校生の頃は慶応義塾大学野球部に憧れていました。塾野球部時代には充実した日々を送ることができました。学生たちにとって、「今」は二度と戻らない青春の毎日です。野球少年や球児たちには慶應義塾野球部への憧れをもって欲しいですし、塾野球部員たちには「塾野球部に入って良かった」「育てられた」と感じてもらいたいと思っています。そうなるよう、学生たちへ愛情を注ぎながら(全然伝わっていませんが)指導する毎日を送っています。もちろん、今でも厳しい指導スタイルは変わりませんが、大学院で学んでいた時のように厳しいだけではないと思っています。目標を達成するために克服すべき弱点も率直に伝えていますが、データに裏づけられた論理的な説明を心がけています。ただ、少々物足りないと感じることもあり、部員たちには、慶應義塾体育会伝統の「練習ハ不可能ヲ可能ニス」をもっと体現してもらいたいと願っています。もちろん、趣旨を取り違えず、という注釈はつきますが。
将来的にも大学野球の現場に身を置き続けたいですが、野球人口減少も取り組みたい課題の一つです。これまでも、数え切れないくらい野球教室を実施してきました。一人でできることには限界がありますが、それでも、何もせずにはいられないという危機感から行動を起こしています。おこがましいかもしれませんが、野球文化の振興の担い手として少しでも役に立ちたいと考えています。2020年の東京オリンピックでは野球が復活します。これは大いなるチャンスですが、メダルを獲ることよりも、代表チームの選出から始まるプロセスを通じて野球への興味・関心が高まることこそが重要であると考えています。