Voices|武林 亨教授

実践と研究を両輪に社会の健康を担うパブリックヘルスの魅力

Profile

武林 亨(たけばやし とおる)

應義塾大学医学部・大学院健康マネジメント研究科教授
健康マネジメント研究科委員長
【公衆衛生プログラム】

1989年慶應義塾大学医学部卒、1993年大学院医学研究科博士課程修了。ハーバード大学公衆衛生大学院等を経て、2005年より医学部衛生学公衆衛生学教室教授。博士(医学)、Master of Public Health(ハーバード大学)。
公衆衛生学分野で幅広い活動を行っており、疫学、予防医学に関する複数の研究プロジェクトが進行中。

コホート研究への取り組みと「鶴岡みらい健康調査」プロジェクト

現在取り組んでいるもっとも大きなプロジェクトは、2012年にスタートした鶴岡メタボロームコホート研究、市民の皆さんには鶴岡みらい健康調査として知られています。これは、近い将来に実現するであろう個別化予防医療のエビデンスを創出するための最先端の分析技術を用いたコホート研究であり、また、参加いただいている鶴岡市の住民や保健医療者の皆さんと一緒に地域の健康づくりをすすめていく地域活動でもあります。

地域との関わりと最先端研究プロジェクトと

私と鶴岡という地域との出会いは、2008年、地域に緩和ケアの仕組みを導入してケアの質を高めるという国による大規模プロジェクトでの関わりでした。このプロジェクトが一定の成果を挙げた後、超高齢化が進むこの地域の健康の質を高めるための新たな取り組みをぜひ実現させたいと考えたのですが、鶴岡には、2000年に設置された慶應義塾大学先端生命科学研究所があって、きわめて独創的なバイオ分野の研究が進んでいたことから、自分の専門分野である疫学研究と研究所の独自技術であるメタボローム解析を組み合わせたまったく新しいアプローチによるコホート研究が始まったのです。協力をお願いした地域の皆さんも「意味があることだから一緒にやりましょう」と言ってくださり、89%というきわめて高い参加率で最初の三年間に鶴岡市民約1万1千人の方々が協力してくださいました。やや専門的になりますが、体質に関する情報であるゲノム、アミノ酸や脂肪酸といった体内代謝物質を網羅的に分析するメタボロームを組み合わせた多層オミクスの疫学研究としては、世界でも有数の規模となっています。現在も実に幅広い生体情報が蓄積されつつある進行中の研究であり、またその研究成果もあがり始めたところです。

実践と研究を両輪として

私はこれまでに、パブリックヘルスの分野のさまざまなテーマで活動を続けてきましたが、いつも、実践と研究が連動し、そのことを教育にも活かしてきました。いま現場でおこっている課題を、最新のアプローチで解決を図る-その生きた活動こそが、学びの原点になるからです。

鶴岡での取り組みでは、研究室の多くのメンバーが交替で現地に行って研究を進めています。また、機会があれば、積極的に地域の健康づくり教室に参加し、健康情報を伝えたり、また地域の方々の暮らしや健康の悩みなどについてお話を伺ったりしています。なぜなら、きちんとデザインし、参加者の背景までを理解して得たデータから生み出される成果は、単なる数字以上の意味をもたらしてくれるからです。パブリックヘルス(公衆衛生)は、単に科学的知見を得て終わりではありません。それが地域の皆さんにどのように役立つのか、そしてどのように届けるのかまでを考えることが必要です。また、集団を扱うからこそ、個人ひとり一人のことを大切にできることが重要なのです。大規模疫学研究は、デザインされた様式を持つ健康ビッグデータとも考えることができますが、ビッグデータの時代にこそ、こうした感覚を研ぎ澄ます現場での経験を通じて、しっかりとした視点を獲得することが必要だと考えています。

また、並行して実施している、PM2.5の疫学研究もまた、実践とのつながりを強く持った取り組みです。全国10地域、13小学校の1290名の小学生に協力いただいて実施しているこの取り組みは、社会問題ともなった大気環境中のPM2.5が小児期の肺機能の発達にどのような影響を及ぼすかを明らかにすることを目的としたコホート研究です。このうちの8地域では中学3年までの発達について継続して調査を行うこととなっていますが、こうして得られた成果は、新たな医学的知見になるだけではなく、どの程度の大気中PM2.5濃度になると肺機能に悪影響を及ぼすかを明らかにすることによって、「大気環境基準」という国民の健康を守るために重要な基準値が妥当であるかどうかを検討することにも役立つのです。私がライフワークとして関わっている労働環境における許容濃度等の設定も、まったく同様です。

ローカルとグローバルをつなぐ

私は、疫学研究という手法を軸に、さまざまな健康の側面について、研究と実践を続けてきました。地域の健康、働く人々の健康、生活環境と健康。それは、社会のあらゆる側面で健康の重要性が認識され、力を合わせて解決すべき課題となっているからでもあります。こうしたパブリックヘルスのもう一つの魅力は、ローカルとグローバルが直接つながっていることを実感できることです。戦後のめざましい経済発展にあわせて、多くの健康課題を解決して世界一の長寿を達成した日本の経験、そして超高齢社会を最初に迎えた現在の日本の取り組みは、自分たちのためだけでなく、あらゆる国のあらゆる人々の役に立てることができるのです。

個と社会にアプローチして健康を実現するパブリックヘルスは、幅広い視野を持った多様なバックグランドの人々が力を結集して取り組むことが何より求められています。意欲ある皆さんと一緒に、さまざまな課題解決に取り組めることを楽しみにしています。